歴史紀行(連載第2回)~歴史に埋もれた傑物、武田光和伝説その①
武田山の銀山城を拠点にこの辺り一帯を約250年に渡って支配した安芸武田家の第19代当主、武田光和(みつかず)〔1507~1540〕は武勇に優れ相当な傑物だったらしく、今の八木の城山北中学辺にあった八木城当主の子孫、香川正矩が江戸中期に書いた「陰徳太平記」には光和の数々の逸話が記されています。中でも当時大きな勢力を誇っていた周防(山口)の大内義隆軍2万5千によって武田山を十重二十重に取り囲まれた大永2年(1525年)の攻防での奮戦は大きく取り上げられています。
味方の重臣があわや討たれようかと見えたまさにその時、さっそうと手勢を率いて登場した姿は「武田光和、身の丈7尺(2m)余りもある大男で鉄の弓を用い…」と表され、敵方をバッタバッタとその鉄の弓で倒す様は、「音に聞く保元の乱の鎮西八郎源為朝や、屋島の戦いの能登守平教経でもよもやこれほどではあるまい」と恐れおののき、大内方は総崩れになったと言われます。…
攻められれば山の中へ引き、ひるんだと見ると尾根の陰から散々に攻めかかり、かくして難攻不落の全山要塞、銀山城をバックに3000の小勢で2万の大軍を防ぎ切り、銀山城最大のピンチを乗り切ったのです。
この時もし攻め落とされていたら、共立病院のあるこのあたり一帯もどういう姿になっていたことか、、、ある意味で郷土を死守した隠れた英雄といえるのではないでしょうか・・・(^^♪
のちに光和の死後、毛利元就に滅ぼされ安芸武田氏が滅亡したため、歴史の表にはほとんど出てきませんが、相当に魅力的な人物だったらしく地元には武田光和にまつわる様々な伝説が数多く残されています。まさに「歴史に埋もれた地元の傑物」と言えるでしょう。
詳しくはまた次回! (つづく)
( 郷土作家 つかさまこと )